蜜琴

それでいいのだ                 
 今日一日の中でも
たとえば このひとはこうゆうひとだわと
感じることが私たちには何度あったろう

そして その気に入らない部分を 自分のひきだしに大事にしまって(笑)
どこかで見下し
わたしはそんなんじゃないわとひき(笑)
とがめる。だからほんとうは あほばっかりや と言い続けているひとは自分に言いつづけてて(笑) 
じぶんをゆるさないでいるのだと気づく。
まあ 大阪で使われる あほちゃうか は 愛着もこもっているけどね(笑)
そんな愛着もなくなって本気の本気でまじめくさってゆくほど
こんな人いやだと 分離分離分離してゆく
罠におちてゆく
でもこのまじめくさっているユーモアのかけらもない部分は
自分の中にいるのです。


相手に見ている部分は必ず私の中にもある。
吹き出すくらいちゃんとある(笑)
もうそのひととは関わらなくなっただいぶ後で気づくことも多い

相手の考え方(世間の常識)や
たとえば 荒さ 支配的さ 何をしてるかわかってないところや 無自覚さ
心の貧しさ などぜんぶある


自分以外の人は 私のもっているものを見せてくれているのだと最近思う


相手から私に向けられた たとえば 敵意とか 判断などは
私自身が 外側に向けているもので
相手と自分は まったく同じ方向を向いているんだと思う
それは 多くの瞬間の
相手の その 敵意や怒りなどの反応は こっちの自分に向けられているようで
ほんとうは関係がない
ぼけと思った自分の反応は  ほんとうは 目の前の相手とは関係がないんだと
うなずく時がしばしばあります。
相手の中の自分のその部分を拒絶しているだけだったり
過去の反応が ばっとでているだけだったり。
それだけいろんな体験が私たちの内側にあるんだと思います
いい 悪いじゃなくて そのままの意味でこころが濁っている
べちゃっといろんなものといろんなものをくっつけている
投影してガチンコガチンコで流れる隙間がなくなっちゃっている

あらゆるものが自分や相手に向けられているものじゃないときづかなかったら
 自分が自分自身の否定している部分を見ているだけだと気づかなかったら 
 
自分が侮辱された!とか
(たとえば 夫に子供に友達に)こんなん思って私は最悪だ!と
自分を責める罠にはまってしまう
ってこれは日常茶飯事なことですが。

判断があるとき(相手の部分は自分にあるはずないんだ(笑)ぜったいぜったいに!っていっている部分) 自分が自分を許していないとき 
ほんとうに相手とは向き合っていないんだなと思う
千回 向き合って話していても ほんとうのいのちといのちでは
向き合っていないんだなあ 


肝心なのは 自分が感じているその判断を自分自身そのものだと思ってはいけない
(その思いに気づいていること)
相手が示している反応を相手そのものだと思ってはいけない
(その思いに気づいていること)
それらはいのちそのものとはまったく関係がない
石ころが石ころをみている 自分という輝きをさえぎっている石ころに自分が
なってしまっている 石ころが自分だと思ってしまって 自分を忘れてしまっているだけ

敵意も 自分の中で 起こっていることで
気づいているのが自分だということを忘れないことは
命綱だと思う 


敵意や執着をすてようすてようと考えても

たとえば お金への執着について
そんなんあるに決まっていると思う

過去 人類は 所有ということがはじまって以来 パンのない苦しみ 
貧富の差や 不作なのにとりたてに追われ 切羽つまり
お金がなくて追いかけられたことや 牢屋にいれられたり 殺されたことだって
あったはずだし
お金がなくて売られたこと そのあとのけおとしあいなど
お金のために何かをした積み重ね 苦しみ 優越感 うらみ さみしさなど
無数にあるはずだから

先日また レ・ミゼラブルをみていたら震えがおきるくらい
その感覚がしました。
だから 自分のなかで ちょっとした思い 日常のほんのささいなことが
過去の出来事とつながっているんだと思う
それを見つけたら やっとその部分が解放されるんだから
あったら すばらしい と言ってもいいくらいだと思う^^

だから 何がでてきても 大丈夫!
自分の内側だけでそのまま受け入れてあげたら、、、それでいいのだ!
憎しみや苦しみや判断じたいは いのちそのものとはまったく関係がない、、、
そのままそれでいいのだ!
 


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金のフック                 

自分を確立するのは何をして来たかだという
何をするかが自分の杖になってきた時代
そんな外側にむかってゆく世界から今度は内側にむかってゆく世界への方向転換を
自分でえらぶひとが増えてきたように感じます


この瞬間瞬間を杖にするとは
そんな方向転換が大前提

どうやって?

と自分に問いかけてみたら

ただ 気づいていることだとふと思った。
方向転換しようとすることや 変化しようとか すばらしくなろうなんてことは
忘れることだ、って(笑)
今 おこっていることに 感謝することだけだって(笑) 
なんか逆説的だなあ、、、
たとえばわたしなら ルーちゃん(猫)がいないと生きていけないという想いに
そんなん思わない強い自分になろうなんて思っても はじまらない 罠はまりです(笑)
私にそんな思いがあるのかあって あたたかく受けとめる
あかんってという想いがあったら それも あたたかくうけいれる

 
たとえば相手や状況によって人は
自然にふるまってしまう役割がある。
自分を見てるとたくさんある
それにまつわるあらゆる思いに気づいていること
まあ 一瞬一瞬ですか

こうゆう人だと思われたい
なになにと思われたらどうしようとか
どうしても手にしたい そうすれば自分を確立できるという思いや
なになにがないと自分は立っていられないとか

自分にはなになにという支えがあってありがたいわという想いや
不安や なくす恐れ
状況や自分を否定している想い 判断
 
内容に関係なく 気づいていること
気づいていることでもう 方向は変わっているんですね。


条件つきのものから無条件のものへ
この変換は 
きっと錬金術みたいなもので
今 自分の体で起こっているシステムをほとんど理解できないように
表面的にあれこれ考えてできることじゃないんだなあきっと

わたしができるのは 
瞬間瞬間感じること湧き出ることに
気づいて見つめることだけなんだろうなあ


ちなみにホ・オポノポノでは
わたしの中の 何がこの思いを引き起こしているのか?
ゆるしてください
あいしています
ごめんなさい
ありがとう
などの言葉を自分の思いに言います。クリーニングするという表現がされています

**************

ある時点で美しいタペストリーを全体からみるような
そんな感覚が現実的に見せられるかもしれないけど
大事なのは ひとつひとつの目の前のもの
ひとつひとつの気づき 輝き 今
そう それには 今をつむぐことだけなのかもしれません 

この感じなにかにあったなあ
そう思い出した。
本棚の 喜びの泉(ターシャデューターと言葉の花束)の絵本の中にあったはず。
今めくってみました あった、、、ウィリアムブレイクの詩


 一粒の砂に世界を見
一輪の野の花に天国を見る
手の中に無限を収め
ひとときのなかに永遠をとらえる 


::::::::::::::


一瞬 もう自分が誰かも忘れてしまうくらいにその瞬間にとけてしまって
すべてがスローモーションのように
時間軸からはずれたような感じがするときが
ときどきある はっときづいたときはエネルギーまんたんになっているような
なんともすばらしい気分になっている

この次元には きっとどの「今」というドアからもつながっているんだろうな 
わたしはその次元の蜜のようなエネルギーにあふれる世界が
自分のふるさとみたいな感じがします。
このブログのタイトルは 蜜琴 ですが なにかそれに
惹かれてゆく  
歌も猫も花も食べ物も美しいものも好きだけど なによりもたぶん
このことを考えたりするのが個人的に
好きです^^というか 歌や猫や花とか好きなものを通してこの蜜のような次元を
感じているんだと思う。 たとえば だれだれといっしょにいないと すばらしい気持ちになれない これをすることでしか こんな気持ちになれない と誰かや何かが
それを運んできてくれると信じてきたけど
ほんとうは この蜜は自分の内側にあって 誰かや何かを通じで 自分の蜜を感じていたんだなあときずくこと これが 一瞬一瞬を杖にする幕開けなのかなあと思う 



能動的になっているようだけど実は逆に受動的で
手放しが起こっているかのように
この手放しのとき 表面のいろいろな主張が(笑)静かになって やっと
ほんとうの自分の本質が 出てこれるのかもしれません

見てやろう とする つかみかかるようなエネルギーは
見つめていよう とする 目を閉じてすわっているようなエネルギーとはちがいますね ははははは(笑)  このすわっている奥の奥にほんとうに見つめている静かな空のような
意識があるのかもしれません
ほら このフック 座ってるように見えます(笑) 長いほうをもってひっかけようとするのと こうしてじっとかけられるのを
待つという姿勢  


「今」に乗って ほ をすすめて
一瞬一瞬 空になる 
自分の内側を見つめる空に
天が地に一粒づつ降りてくるよ^^


今気づきました。 ウィリアムブレイクのさっき書いた詩の下に
「無心の前兆」 とかいてあります。 ほう、、、


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ピカピカの杖                 

お殿様や誰々のお役にたってこそ 自分は価値があると納得できる

どれだけお役にたったかを自分の杖にしていた時代が
ずっとつづいてきたんだから
何をもっているかで自分の価値が決まるという心の構造を
しらずしらず先祖代々受けついでいるのだろうと思う

お役にたつという成果や成功はすばらしいことですよね^^
それはそれでありのままとして 
持っているものに自分という存在価値を依存するという心の構造について
今日はかきたいと思います

夫なら妻ならこうあるべきだ 
お金をあげているんだから これくらいのことはすべきだ
若いんだからこれができてあたりまえだろう
年をとっているんだから落ち着いた行動ができて当然だ
この年になれば これができていて当然だ
などの根底には

自分はだめだ 十分じゃないという思いを必要としている心の構造がある
外側のもので自分を確立してゆくという世間ではあたりまえの考え方
それは自分の中にある
特別がすばらしい 敵がいる 犠牲をはらってこそ という
貧しさと欲求の世界が 心の一部分にある
どのくらいその構造が心の部分を作用しているかは人それぞれだと思う

その構造を 今じーっと見つめてみる
自分の杖を強化するために 何かを手に入れようとする営みをくりかえしては
自分はだめだという想いで停滞や苦しみを繰り返し生み出しては
その構造を生かし続けている 
そして身近な誰かが自分の杖にならなければ 強烈な怒りや憎しみ むなしさ 哀しみが湧く

なにかになるという杖がないと自分は消えてしまうという恐怖がまたとがめを生んでゆく

自分がその考え方だから 不幸を感じているんだということには
全く気付かない
個人的なことですが私は 月経前になるとこの死の表現が
こころでとても強く作動するのを感じます

その不満の構造が生き続けるためには 
持っているもので自分の価値がきまるという考え方に
支配されつづけなくてはいけない 
瞬間瞬間 誰にでもやってくる 平等ないのちのかがやきを忘れていなければいけない
そして 本当にイキイキした自分の内側のいのちをわすれてしまう
いのちをなくしてしまう 

自分の杖の強化にならないんだったらしても仕方がないという
いのちを忘れた考え方に支配されて すべてが 色あせてしまう
人の集合意識のなかにどっぷり埋没してしまって
死の表現の中だけで息をひそめている
(そのことに気づかない、、(T_T))

自分は何をささえに 
何を杖にしているのか

あ 今これを書いていて思い出しました

わたしのいとこの母親であるおばさんは
私が 学生のころ亡くなった。
そんな悪いと思っていなかったわたしは
入院しているおばさんにクッキーをつくってことづけた
そのお礼にお手紙をもらった
それからほどなくしておばさんはなくなった。
後になっておもえば いとこたちをよろしくというようなことが書いてあり
自分は 日々の生活に追われて大切なものをわすれていたようだと
 そんなようなことが書いてあった。

 
自分の命が終わるという直前に何を思ったのかわからない
でもふと 風がよい匂いがする夕方
なんだか時間の感覚がなくなったようですばらしい感覚がした一瞬とかに
おばさんの言ったことをふっと思い出すときがあります
言葉では表せないけどこうゆうことだったのかなあと。



***************


自分が相手や状況を 自分の強化に利用しようとしてきたと気づくたびに
相手に重荷を背負わせたと心を痛めても
ほんとうのほんとうは 自分が 無条件に受け入れられず重荷を背負わされる
苦しみを誰より知っているのかもしれません
でもここでまた 自分はだめだ どうしようもない とまた罠にはまって
過去を生かし続けるよりも
自分自身から杖にするものを変えるしかない
とりあいしなければ手に入らなかったものから
すでにあるものへ

たとえば 親が子への「わたしの杖になれ」という期待を
無意識に子は感じ取って 反発するかもしれないし 
子もきずかないうちに 怒りをもっているかもしれない 反対ももちろんあり
重荷を背負わされて苦しいけど でも相手をかえようとするのではなく 自分から
杖にするものを変えるしかない
人の評価で自分は増えたり減ったりしないのです。
(でも十分に愛されなかったとなげいている自分の部分は静かに受け入れてあげるのが
何より大事だと思います)

この瞬間 平等にやってきている いのちを
杖にすることだってできるんだなあとふと思う。
そのピカピカの杖を支えにしてひとと関わりあったり 何かを手にいれたり 成果をあげられたら
いいですね
それは 今をあたらしく受け入れるということでもあるのかなあ

お互いそうできれば、、いいですね(^_-)

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輝きー空のような意識の光ー                 
私たちの過去で 敵 がいなかった時代は
ないといってもいいんじゃないかなあ
いままで 自分の背景にいらっしゃる無数のご先祖さまの歩いてきた時代は
壮絶だっただろうと頭が下がります。
私は 八重の桜をみていますが だいたいいつも気づいたら
なんともいえない感情にすっぱりはまって泣いています
追われる 破壊しにくるという なんとも出口のないどんよりした気分が
いっぱいにひろがります
そのとき意識していると 敵がいなかったら 
みんなが幸せな世界だったら 強烈なこの感謝もくやしさも心をひとつにする感じも
味わえないだろうなあと気づきながらも 
また泣いていたりします。

 自分をぎせいにしても 相手を破滅させたいという想いは
たとえば 自覚がなくてもがん細胞をだれでももっていると言われているくらい
自覚なく 人の中にあるのかもしれません


そういえば 自分をみつめることをはじめて ちょっと経ったくらいだったかな
ある夜 こんな夢をみました ★★★

インターホンが鳴ったので わたしは 家の玄関の扉をあけたのです
すると 青白い男の子か女の子がわからないような
表情のない、だけど純粋な感じの存在がいて そのうしろには
なんと ロンドンの兵隊や ドイツのひとや 原始人みたいなかっこうのひとなど
いろんな人種やいろんな時代のひとかわからないけど が無数に行列になって
並んでいたのです。ここの廊下はながいんですが
ひょいとのぞくと むこうまでずーっと続いていて、

まるで彼らの家がここのように かえってきたかのように感じたのでした。

目が覚めてふと わからないけど 過去生の無数の自分なのかなとも
思いました
私が 見ないようにしてきた痛みや苦しみや野心や震えるような達成感 絶望など
過去の出来事への自分の反応の数々だったのかもしれません。

★★



憎しみと自分が一体になるか それとも命の流れと一体になるか
過去と一体になるか  今と一体になるか
裏表の選択が私たちにはあるけど
命の流れは  相対するもののない
壊すことはできないもので
私たちひとりひとりの奥底では 表面の自分が抵抗と一体になっていても
けしてなくなることのない輝きをもっているんだなと思う


先日から アゲハの幼虫がベランダにいるけど
なんかほんと 命の流れそのものって感じで
ポク ってゆう感じ(笑) うちの猫のマル君のことも ポクと呼んでしまうけど
これは 「今」という輝きを発するその対象へ 私がつい呼んでしまう呼び方の象徴だったのかも。
ぷくぷくで大きくなってきたよ、、、くくく、、ポク。


だから 自分を見つめるとか 浄化とかそんな言葉や表現はどうでもよくって
自分の内側から 何かが湧き上がって 圧倒されたときや行き詰ったときに
ありがとうとか ごめんなさいの言葉や

自分だけに認識できる言葉を心の中で言うのもいいかもしれない
たとえば わたしなら ポク とかね(笑)

 

そのとき自分の中で起こっていることに気づいているのが自分なのだという
認識のしるしとして。
ー空から見ているような自分で在るーしるしとして。


なぜするのか わからないのにする ということが
ひとつふえても損はないと思う。関心が一瞬でも湧いたなら。
わたしもなんでこんなにブログに意識のことを書きたいのかわからないのです!

スピリチュアルとか 浄化とか

言葉はどうあれ 自分の言葉への先入観じゃなくて
自分にとって納得できる その言葉の解釈が必ずあるんだと思う^^
 
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条件をこえて                 

二匹の鳩に にかっと笑って手をあげてさよならというしぐさをしていたおじさんがいた
わかるよ おじさん、、、 ちょっとへんに見えるけどすばらしいひとよ。お元気で。とわたしはおじさんの
背中にこころのなかでつぶやいた。

さて 猫はすばらしい
お口がくさくてもほめられ
何かのとりあいで猫どうし本気でいがみあっていても 尊重され
うんこをしては きれいなうんこしたね きもちよかったんと心から喜ばれ
好物を両手で目の前に置かれては ゆっくりお上がり と素のねがいをふりかけられ 
寝ても起きてもほめられる

わたしは 自分を見ているとどうも 猫がどんなふるまいをするかよりずっと前に
「条件をこえて」
すばらしい 好きと決めているみたいだと 
先日発見しました

そんな風に

いいことばかりじゃないけど まあ いいとしよう
大変なこともあるけど それもひっくるめて受け入れるとか
ややこしいとこがあるけど まあ ひっくるめてよしとか、あのひとちょっとおかしいけど(笑) まあしゃあないなあとか

今はゆるせないけど それもよしとする
とか 日常や 仕事や 人へも 自分へも

まあ いいとする というシンプルな気持ちを持つこともできる
持とうと決めることもできる



それと同じく 

何をしたとしても 拒絶する と決めることもできる

命の流れと もうひとつ 命の流れへの抵抗

わたしは いつも自分の中に 無意識に拒絶すると決めている そんな部分におどろきます
自分では思いもよらないことばかりだからです。

拒絶するという構造の海で ああ 拒絶があるなあと意識することで
あっぷと 水面で息をするように感じることもあります

これがあったら もしくは こうしなかったら
こんな孤立感は感じなくてすんだのに と
今を受け入れられないときは誰にだってあります
そんなときはおじやでも食べて できるだけゆっくり過ごすのがいいと思います
やばいときは ちょっとでも 自分を救えることをさがすのが先決です

それはそうと 孤立感があまりにくせのように自分の中に見受けられるときは
その心底なげくまっただなかのとき
拒絶するという構造のまっただなかにいて
ふと意識してみるのもいいかもしれません。
 

やりきれないのは 「条件をこえて」 抵抗に乗っ取られたような状態になっていて
抵抗と一体になって 命を忘れてしまっている
自分を忘れてしまっているからやりきれないのだとふと あれ?と思うかもしれません
意識している(その抵抗をも包み込んでいる)意識にきづいて

え?という うそ そうやったん?を含んでいるような あれ?

あ あの歌思い出してしまった(笑)

♪ 見てきたものや聞いたこと 今まで覚えた全部
でたらめだったらおもしろい そんな気持ちわかるでしょう
答えはきっと奥のほう 心のずっと奥のほう
涙はそこからやってくる 心のずっと奥のほう♪
ブルーハーツ 情熱の薔薇  

すばらしい歌だ。

だけど 人の中の抵抗の部分は
闇の部分とか影の部分とか いろんな言い方がされるかもしれないけど
抵抗が大きくなって死んじゃう場合もあるし笑ってはいられないなと個人的に
感じます。

憎しみや抵抗は 相手や対象 そしてやがて 自分にも届いて自身を削ってしまう
だけど ほんとうは 相手に何かされたから抵抗しているのではなく
もともと自分の中にある抵抗が 憎しみとして現れただけかもしれない
今迄 あたりまえだと思っていたことがでたらめだったら
おもしろい。そのくらい あたりまえという想いをゆるめて
いろいろ見ていけたらいいなあと思う
いままで自分の周囲で
当たり前に語られていたこと 考え方
なじんできた共同体や あたりまえに頼りにしてきた人や
その世界しかないと疑いもしなかった自分 
指針にしてきた人
そうゆうものに やがて人は 意識の上で ひとつひとつに手を振ってゆくんだなあと思う
それは 年齢や立場など関係なくすべてのひとは 自分と同じく
考え方や判断 抵抗などに
乗っ取られているんだなと気づく瞬間かもしれません

命の流れに沿うことは 自分だけでなく ほかの命すべてを生かす気がする 
命という言葉でひとくくりで すべてひとつなんだなあと思う
自分の内側を自覚している意識は 幾重にも重なる抵抗をも包みこんで 
命の流れをハミングしていて
条件をこえて 受け入れてゆく それにできるだけ沿ってゆきたい
ただ そうしたいという気もちが こころの奥の奥のはじめのところにある

自分の中にすでにある大きな意識に すこしつづ すこしつづ
自分のペースで 近づいてゆくプロセスを大切にしたいとおもう。
 


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吸収していない部分がありますよ                 
 村上春樹さんの 「色彩を持たない 多崎つくると、彼の巡礼の年」 

という本をたまたま かしてもらう機会があった。
それで 読み始めると やめられなくなった

内容はそれぞれで読まれるとして

この本の中で 暗い海にひとり放りだされるような
という表現がでてきたとき
ああ と思い出した感覚があった

**************************

ある年の暮れ そう遠くないうちに 天に召されるであろう猫のメリーを
見送らなくてはいけないだろうなと感じていた時期 
ずっと恐怖や不安に包まれていました

 
たとえその瞬間 私のとなりでは ストーブの前で
目を閉じてメリーは気持ちよさそうに座っていたとしても
それを感じられず

不思議なことに メリーのこととはまったく関係がない
遠いむかしの時代にわたしは入りこんで

誰も来ない場所でひとり取り残されているというような
戦争とか廃墟を連想するような
追いつめられた感覚に圧倒されたのです

空気はたくさんあるのに 自分はない と感じているような危機感でした

そのときわたしは ありがとうありがとう ゆるしてください ゆるしてください
と心の中でくりかえしていました
それは 窮地に追いやられたとき なむあみだぶつ なむあみだぶつと
自然とつぶやかずにはいられないような境地で
 

圧倒されながらも どこかで それに気づいている自分もいて
不思議だな 目の前のこととは関係のない 過去の覚えていないような体験が
突然 こうやって出てくるのか と思ったものでした
私の先祖がそんな体験をしたのかもしれませんしわけはどうあれ内側で起こったのです

そして そそくさとメリーとルナを置いて 近くの実家に走ったのです
ふだんはあまり行かないくせに このときだけは
どんなにありふれた風景でもちょっとした憎まれ口をたたかれたとしても(笑)
それがそのときちょっとでもホッとできる自分の小さな選択だったのです

今はたんたんと話しても このときは本当に
切羽詰まった状況の中にいたから(あたたかい部屋にいても メリーが横にいても)

誰かが何かほんの小さな
わたしから見るととるに足らないように感じることで
圧倒されていたり
なにを言っているのか理解できない場合でも 
その人の中では 何かがほんとうに起こっているのだと思うようになりました

だれがいても だれがいなくても どんなものが成功していたとしても
それは自分の内側からやってくる  
そう思うと誰かに(外側には)わかりようがない 孤独があたりまえの
ものなのかも
ほんとうに、、、平和って まず自分の中から開かれてはじめてそこから
誰かや何かに幸せを感じられるんだなと感じます 

日々のちょっとしたイライラや不安 
ゆううつとかも同じじゃないかな
過去 吸収していない部分がありますよ と教えてくれている気がするから
ごめんよとか ありがとう と
あなたのうちはここですよっていうような心持ちで
自分の思い 感覚 感情を吸収していけることは
苦しいこともあるけど ちいさいちいさい積み重ねの人生の仕事
=瞬間瞬間新しくなること 
自分が自分を許す事といえるかもしれません
これは手放すとも表現されるかもしれないけど 
いつか未来そうなるでしょうというより瞬間瞬間にはじまり 終わっている
という 一点の「今」の中だけで 「今」在ることの気がします
 
それは何があっても動じないとか のっぺらぼうになることじゃなく
猫のようにありのままに近づく というのか。

最近ふと
動物たちは何かを考えたりつづけたり過去や未来にとらわれたりしないけど
過去や未来にとらわれる人間だからこそできる 与えられている大事な役割ってゆうのが
あるんじゃないかなと思います。 
宇宙はどうなっているのかわからないけれど なんかそんな気がしてきました
 
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耳を澄ます                 

今日ふと 私が せじゅつで(せじゅつを受ける方に対して)心がける一番重要なことは 
感じることの邪魔をしないことだなあと思った
邪魔をしない に想いをはせていると 耳を澄ますということが浮かんできました

相手の邪魔をするというのは そんなあしないでしょと思っていたけど
私は日常茶飯事 意識せずにじゃまをしている と最近思うようになりました(笑)

もちろん人の邪魔をするひとは 自分の邪魔をしているのです。

**********************

宇宙の視点からすれば 苦しんでいる人はいないんだなあ
ただ そのまま なんだなあ

むかし こうゆう風なことを聞くと
あほか〜 もういいって!という想いが湧いた
そんなたわごとはどうでもいいんじゃ 的な毒づいた感じが自分いっぱいに広がった。

その気持ちはもちろんこの瞬間もわかるし 誰かからのその気持ちが矢のように
とんでくるのも感じる ただそんな気持ちを見ている視点がもうひとつ加わった。
そしてそのひとつ大きな視点から見ると
たとえば 善人 悪人 などの区別もない ただ同じ

もちろん 善人 悪人という その判断の境界ではそれが働き通っている世界なんだけど
もうひとつ大きな視点では そこからは 善人も 悪人も 同じだというような
まったくちがう世界なんだなあと とつぜん腑に落ちた瞬間
壁にすこし穴があいたような気がした
抜け道ができたみたいに^^
じゃあ 悪人になってもいい とか そんなあほな話ではもちろんないです。

前に フルフォード博士のいのちの輝き の本でだったかな

善ってゆうのは 自分の本質の流れに沿う行いのことで
悪ってゆうのは それに逆らった流れの行いのことだというようなことを書いてあった気がします。
それは 
たとえば 何々は きらいだから という世界にとどまってしまったら
その何々の良さがぜんぜん見えなくなっちゃう
自分自身のためにその良さが見える状態でいたい
でも心には 割り切れないたくさんの思いがあるんだから 
自分の内側をいつも
心がけていよう とするようなことかなと思う  とがめている相手と同じ位置世界でしか
とがめは感じることのできない。
まるでボタンとボタンホールみたいに^^
またはとがめという矢をうちつづけて とがめるべき状況を獲得し続けているともいえる。
自己否定の矢もあるし いろいろな矢がある

とがめや怒りというボタンが とがめられる状況というボタンホールを
ひきあう という意味で
すべて自分の内側にある すべての人は自分の一部分だと認識することで
お互いに向かいあってガチンコしているその状態から 同じ方向を向き
 
進行方向に向かって はじめて自分を見つめるスタートラインに立つことができる


もちろんガチンコ状態の位置にいたい人もいると思います
そうゆう意味でこの地球は同じ場所にいても それぞれがまったくちがう世界に
いるともいえるかもしれないです。

今 自分はどんな矢を放っているのか?
その矢を感じることで それが放たれる前に受け入れることができる

宇宙の視点では 皆同じに見えているとしても
肝心なのは 自分の今で視点でどう見えるかで
自分の中に 宇宙の視点があるんですからと言われても
ああそうですか それはよかったですね とくらいにしか思えない

人はだんだんこの大きな視点にむかってひとつになる道を歩いていると私は思っていますが
それはめざすとかではなくて 自然に本能がそこに向かわせてしまうよう に感じます

その道のりの歩みの一歩はこの瞬間!
この瞬間の湧いてくる思い
この人がもっとこうだったら幸せを感じられたのにとか
あいつゆるせん 思い通りになると思いやがってとか
へっへっへっ うまくいきそうだ ラッキー という思いだとか ちいさな幸せとか
はりつめている自分の中の悲しみ 泣きたい気持ち 心細さなどを
自分で ちゃんと感じてゆくことだと思います

 
ここにはもういたくない もういやだ という気持ちを感じきることだと思います
すぐそのしていることをやめて立ち去る ということではなく
もういやだ という気持ち自体を 感じてゆく。すると
もうほんとうにきりがないと感じはじめて 自然に離れてゆく流れになるかもしれない

こにくたらしい相手じゃなくて自分の内側のその憎しみ自体を
悲しみの理由ではなくて 自分の中の悲しみ自体を さみしさ自体を。
そこには いろんなものがまたいっぱいいっぱい芋づる式にくっついているかもしれない。


そうしているうちに 自分が その○○自体ではなくなって
自分と○○の間に隙間ができて 通りぬけられるかもしれない^^

なにかがないと幸せを感じられなかったのに
あまりそれにこだわらなくなってくる
自由が利くようになってくることで楽になるし
あからさまに痛みを与えられたとしても
逃げたり、そこから離れたり
それなりの対応(反応しないことも含めて)能力も利くようになってきたり
また わかってはいても相手と今自分はガチンコすぎて
今は関わらない方が 懸命だという判断もあるかもしれません

ということで 悲しいことをなくすことや対象を変えることは
残念ながらできないのかもしれないけど
自由が機能するように 自分の心じたいの柔軟性を増すことはできる
手放しをすると言えるかな。

 
その気持ちを撃退するのではなく 耳を澄ます 飲み干す 光をあてる
ありのままを感じることを わたしたちは 常に選択できるんだなと思う

耳を澄ますとき 自然に 静かになる 不安や恐れをきいているのであっても
聞いている心は平和な感覚がある

聞いているのはいったい誰なのか とまた耳を澄ます^^

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吹き出したこと                 

先日スーパーでむかしの知人をみかけて びっくりした
どうなったの!と思ったとき
20年以上前とは 自分だって外見は変化していることにハッと気づいて
思わず吹き出してしまった。自分だけそっちのけで。

相手の外見の姿だけ自分が見た最後の印象のままとまってしまっていたのです

だけど内面はどうだろう

その変化に耳を澄ませたくなる

最近 
心持ちというのかな? 意識的であること どれだけ自分自身に対して包容力があるか
その美しさに心が動く もちろん外見が美しいことはすばらしい。
そして それを超えて内面の美しさはもっとすばらしく感じる。
年を重ねる 輪廻を重ねるというのは 見えないものが増してゆくことでもあるのかな 
実際のおじいさんより その小さい孫がずっと内面的に成長している場合もあるのも
この地球のおもしろいところだと思う

この前言っていたこと きのう言っていたこと 
ちょっと前とは
もうとっくに終わりを告げて 未知の相手になっているんだなあ
その相手を新しく見るという更新力は
自分自身へ働く更新力以上は働かないんだなと思う^^

自分の目線の世界(次元)までしか世界を感じられないように。

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小さな魔法                 

たとえば 身近な誰かが
不機嫌でむすっとしている とか
街で知らない人があからさまに 何かを投げたり捨てゼリフをはいて電車からでてゆくとか
とがめにはいろんな形があるけど

ふと それは
私自身の中の自然な流れとは逆らって働いているエネルギーが
目の前の誰かを通して現れているような感じがする そんなときがある

まるで 行き止まりに追い込まれて一巻の終わりを前にして襲い掛かってくるような
、、、
そんなエネルギーに向かって  

人に言っていることは
ほんとうは自分に言ってるんだ

とセイロンをいっても  
るせえっ紅茶野郎(ある作家風表現のエネルギー(笑))
ってかえってくるだけで
もし この言葉を聞いて 

なるほどなあ とちょっとでも思ったとしたら
それは そのエネルギーが 自分の中で変容したんだろうなあと思う
それってちいさいちいさいことだけど 魔法みたいにすごいことだと思う

こんな風に 小さなたくさんのきらめきが今日も身近で起こっていて
目には見えないけど
毒が解毒されたり 
(それが 意識する 気づいている ありがとう と言うなど、、で変容の扉が開いて
 怒りは怒りに 考え方は考え方に それぞれがそのままになる)
運よくば 良薬になるようなことがそこかしこで起こっているのかもしれない
「人に言っていることは
ほんとうは自分に言ってるんだ」この言葉が 今日ストンと心にはいってきたから。



過去わたしも 親しい人や場所にどんなにたくさん毒をまきちらしてきたか、、
って気づくのはいつも あとになってからなんだなあ。
あ、私を通して ラッパを吹くみたいに井戸の毒をまき散らした 、、か!
だから時の流れもすばらしいなと思う
それをすれちがうこともない誰かが 目には見えないけれど
解毒してくれてたかもなあと思う

せっかく吹くなら 花音がいいな。


かなしみの数を言い尽くすより 同じくちびるでそっと歌おう♪
それにしても 「いつも何度でも」 この唄なんてすばらしいの、、、

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ちなみに 意識している 受け入れる 手放すという方法には
いろんな方法があると思いますが 
私はハワイのホ・オポノポノを使っています
それって何かっていうのは正直わからないのですが 
考えるより先につかいます

つかうというのは 湧いてくるものすべてに ありがとう あいしています ごめんなさい
ゆるしてくださいと心の中で言っていくのですが
.
ホ・オポノポノについては きれいな本が数冊でてます。肩書きや人の意見なんかより
ひかれるところがあるなら直接触れ合ってみるのがいいと思います。

今 私の本棚でふと目についたこの2冊の写真をのせておきます
ホ・オポノポノ ライフ(講談社 著 カマイリ ラファエロヴィッチ 訳 平良アイリーン
アロハ!(サンマーク出版 イハレアカラ・ヒューレン 監修  平良アイリーン著)
ウニヒピリ という本も個人的に好き。表紙がすごくいいんだなあ^^







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波乗り                 
 数人でいて
ときどき だまっていたら
一緒にいる誰かから どうしたのかなという思いを向けられていることを感じることがある
話においてけぼりしてるのかと相手が思ってくれるのかもしれない

おなかすいてるん?と言われることもある
だいたいはそうなんだけど(笑) みなで話をしながら
自分の内側に湧いてきた感覚に集中してるときもある

だからおいてけぼりしてるのは 私の方なのだよふっふっふっ(笑)って、そんなあほなことは
どうでもいいんだけど

見ているのは今  そして手をあてているその感覚の根は 
過去の 自分でも知らないような集大で
ベタっと ものごとや人にはりつけた嫌悪 好感などそのものにいきつく
結局わたしは そのあせりや苦しみや拒絶や痛みじたいを嫌悪し
それを握りしめつづけているんだなあと思う


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たとえばオフィスなどの とある部署内で
誰かが誰かを 心の内でとがめているとする
もっとこうすべきだ!とかあほなやつだ というような思いを空間に充満させている
自分ではそれを充満させているなんてこれっぽっちも感じていないかもしれないけど
人間は動物なので それをみんなキャッチしていて
無意識に抵抗を発射する 
社内は無意識のたたかいのような雰囲気になってしまう
なんかわからないけど攻撃しなくちゃいけないとうような気がしてくる
そして それは 仕事先や 仕事の流れ 個人どうしの関係にも通じてゆく
今という時との関係や宇宙との関係 etc etc...


そしてますます こいつのせいだという思いと怒りを強めてゆく
世界を敵にまわしてゆく

もちろん意識的に気づいているひとが社内にひとりでもいれば ああこれが今
充満して自分も刺激されてるなあとわかるかもしれない
そして意識の光でそれらを解放してゆけるかもしれない

そのとがめている人は 今起こっている状況に気に入らないことがある。
もしかして社内のことだけではないかもしれないし
実際それは なにかのことではなくって自分の内側にずっともちつづけているもの
なんだなあと私は自分を見ていて実感する
その怒りをめくったら イライラや恐怖やあせりや 過去の恐怖の体験 
深い悲しみとも
むすびついているかもしれない

それを見たくないから 他の誰かのせいだという発想にいく
自分を苦しめるものという概念と 誰かを ペタッとはりつけ
苦しみと自分も一体化している



その怒りを秘めたその暗さの部分 自己否定を繰り返す部分は
誰でも持っていて どの程度その部分に乗っ取られているかは
どのくらい意識的であるかにそのままの意味でかかっている
よくお酒をのんで 顔つきが変わり この部分が あからさまに表れるのを
見ることがある もんくをいいつづけているのは本人じゃない他の何かのような気がする

本人がとがめているその相手ではなく自分の内側のその感覚じたいを見つめてゆく 
その感覚にはいってゆくという扉を通って
感覚と一体になって境界線がなくなって今が深まることと
感覚されない(自分という扉を通っていない)苦しみや怒りが
本人を飲み込むのとでは 方向がまったく逆

あまりにイライラして なげやりな気持ちが強くてもふと
なんかちがうなあと本人が思う時 それは一瞬の光がはいった隙間で
自分の本質 隙間と光を感じているんだなあと思う

人をとがめつづけているのは 本人だってつらい
苦しんでいるんだから。
その姿を見ているとかわいそうで涙がちょちょぎれそうになる
馬鹿にしてるんじゃなくって
自分の中のその哀しみに沈み込みリンクする それでもそのときそれにのみこまれたら
それを見つめる。まるで波乗りみたいだなあと思う。
私たちは 哀しみや考えや思いというひとつの目には見えない海を共有しているんだなあと思う
この世界で生きるってそうゆうことかな。

だからなげやりさを見つめていくしかない
出るたびにイライラを見つめていくしかない

もともとの本質の自分に戻るには
その自分の怒り とがめの感覚を
自分で見つめるという方向転換をしなくちゃいけない
それを本当にはじめるのは
自分自身で気づいたときなんだと思う

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